ふるさと全国県人会まつりが近づいてまいりました。
「中京の信州人だより」のNO、9 PDF版でお送りします。
これから、全国県人会まつりの準備と「中京の信州人」会報誌の編集、9月から原啓印刷経由での広告のお願いと仕事が一気に集中してまいります。
何分、当会はボランティア活動のため、広告協賛企業の皆様方の元に足を運ぶことができず、心苦しく思っております。
ふるさと全国県人会まつりの当日は、即戦力となる新会員の獲得に努めたいと考えております。
日本福祉大(愛知県美浜町)には長野県人会があり、今回、県人会まつりに招待しましたが、学生の皆さんも3年間、少し消極的になっており、担当の先生から今年は欠席という返事でした。
日本福祉大に長野県人会ができたきっかけは、1985年1月28日のバス転落事故で地元の人たちが救助に尽力してくれたことへの感謝もあったと伺っています。
(関連記事を、最後のページに掲載しました。)
今後、日福大はじめ、名古屋の大学生にも声をかけていきます。
協賛企業の方々にもメリットがあるように、Uターン、地方移住の就職情報の発信・仲介のお手伝いが出来たらと考えています。
今回は会報誌をPDFにして添付しました。
文字が小さく読みにくいかと思いますが、ご容赦ください。
引き続き当会にご理解ご協力をよろしくお願いします。
名古屋長野県人会 広報文化委員会
20220820 中京の信州人だよりNO9(1).pdf. | ||
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
事故現場となった道路の跡
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日付 | 1985年(昭和60年)1月28日 |
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時間 | 5時45分(JST) |
場所 | 長野県長野市信更町下平(笹平ダム) |
座標 | 北緯36度36分18.7秒 東経138度4分2.2秒 / 北緯36.605194度 東経138.067278度 |
死者・負傷者 | |
死者25人 | |
負傷者8人 |
1985年1月28日、日本福祉大学の学生ら総勢46名を乗せた三重交通バスは、北志賀高原の竜王スキー場へ向かっていた。同校では1月28日から1月30日まで、体育科の授業の一環としてスキー教室を実施する予定であった。
事故発生時刻は午前5時45分。犀川に架けられた大安寺橋にさしかかる手前の左カーブで、バスはガードレールを破り水深4メートル、水温4度という極寒の犀川に転落。転落地点は下流に建設された笹平ダムのダム湖にあたる。総勢46名のうち、乗客の大学生22名、教員1名、運転手ら2名、合計25名の命が失われた[1]。助かった21名のうち8名も重軽傷を負った。
現場は雪が積もり路面が滑りやすくなっており、バスのスピードの出し過ぎが直接の原因であった。しかし、死亡した運転手は事故当日までの二週間を連続して出勤し乗務に当たっており、バスの運行を担当する三重交通の責任が問われた。
三重交通の特別保安監査をしていた中部運輸局は1985年3月5日、明らかな過労運転防止違反で輸送安全の確保に手落ちがあったとして、道路運送法43条(免許の取り消し等)に基づき、278台ある三重交通の観光バスのうち8台について14日間(延べ112日車)の使用停止命令を出した。バス会社に対する行政処分としては、それまでの最高であった1972年の川中島バス事故の100日車を超える処分であった[2]。
長野県警察および長野中央警察署は、事故の背景には運転手に「過密勤務」があったとし、運転手は過労状態に陥っていたと認めた。また、三重交通四日市営業所の路線バス運行主任は、路線バス部門の運転手らの細かい勤務実態を知る立場にあったが、運転手が過労で正常な運転ができない恐れがあることを承知の上で、運転手に長野県行きのスキーバスを運転させたとし、1985年9月4日、路線バス運行主任を道路交通法75条違反(過労運転の命令)の疑い、三重交通を道路交通法123条違反(両罰規定)の疑い、死亡した運転手を業務上過失致死傷罪と道路交通法66条違反(過労運転)の疑いで長野地方検察庁に書類送検した[3]。
しかし、長野地方検察庁は1986年6月30日、運転手の過労を科学的に立証するのが困難で、正常な運転ができないほどの過労と認定するには、証拠が不十分だったとして、3者を不起訴処分にした(一方、津地方検察庁は同日、三重交通本社と路線バス運行主任、四日市営業所区長を労基法違反(違法な休日労働)の疑いで四日市簡易裁判所へ略式起訴している)[4]。事故の負傷者や遺族は不起訴処分にしたことを不服とし1986年7月28日、長野検察審査会へ審査申し立てをしたが[5]、審査会は1987年4月28日に「不起訴処分は相当」との結論を出している[6]。
事故を悼み、事故現場には慰霊碑が建立された(除幕式は1987年9月13日)[1][7]。学生たちが渡るはずだった大安寺橋は撤去されたが、橋にさしかかる直前の道路はいまも残されている。現在の大安寺橋は事故後に新しく架けられたものである。日本福祉大学では、事故のあった1月28日を「安全の日」と定め慰霊行事を行ってきたが、2005年より不定日開催に変更した[1][8]。
日の出前の暗い時間帯の事故であり、転落と同時に車内の照明が消えたため脱出が困難となった。その中で全盲の学生が冷静沈着に車外へ避難して生還し、話題となった。
当時25名の遺体を収容した正源寺では現在も遺族会、三重交通、日本福祉大学によって命日、盆の法要が行われている。日本福祉大学のキャンパス内には犠牲になった学生の人数分の桜が植えられている[1][9]。
記事写真出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今からさかのぼること25年前の1985年1月28日、体育授業のスキー実習のために北志賀高原に向かっていたバス3台のうち、最後尾を走っていた車両が犀川にかかる長野市内の国道19号線大安寺橋手前の凍結した左カーブでスリップし、凍てつく水深4メートルの笹平ダム湖に転落しました。この事故により、日本福祉大学は学生22名と引率の教員1名の尊い命を失いました。
以来、本学は慰霊と追悼の集いを、現地と大学内で欠かさず続けてきました。今年の学内追悼集会では、今年度より就任した加藤幸雄学長があらためて事故の重みと「いのち」の大切さを訴えました。また、全学学生自治会連合書記局長の古川大暁さんは在学生を代表し、志半ばで命を絶たれた先輩方への無念に想いを馳せて、哀悼の意を捧げました。
早朝から降り続けた雨も直前には止み、時おり薄日も差すなかで248名の学生と教職員が慰霊碑の設置された会場の「友愛の丘」に集まり、混声合唱団による歌声とともに一人ひとりが亡くなられた方々を偲び、献花しました。
2007年度から開講されたオンデマンド授業「日本福祉大学の歴史」でもこの事故について学べるようになっており、事故から25年もの年月を経ても、追悼集会に参加する学生はさらに多くなっています。日本福祉大学では、この痛恨のバス事故について、これからも語り継いでいきます。
*集会で加藤学長が述べた追悼の言葉は、こちらでご覧いただけます。
写真記事提供:日本福祉大学